文月講実施

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ジョン万次郎.jpg◆勝海舟に坂本龍馬、西郷隆盛などなど歴史ファンにはたまらない名前がポンポン飛び出した9日開催の文月講「江戸のジョン万次郎」。会場となった日本橋伊場仙ビル7階の会議室には50人近くの聴衆が詰めかけ満席となった。講は午後3時からスタート。講師はジョン万次郎の曾孫に当たる中濱武彦氏。

◆同氏は自身で作成してきた資料「中濱万次郎関係譜」を基に波乱に富んだジョン万次郎の生涯を熱っぽく語った。それは少年時代の万次郎の話や無人島での暮らしであり、捕鯨船に救助された後、船の仕事を手伝いしながら英語を覚えようと努力する万次郎の姿であり、アメリカ行きを決意した万次郎を養子にした船長が万次郎に数学・航海術・測量術などの高等教育を受けさせた時のエピソードなどであった。

◆また、捕鯨船「フランクリン号」に乗船しながら世界中を航海した時のことや、日本への帰国を決意した万次郎がゴ-ルドラッシュに沸くサンフランシスコで金鉱掘りをして帰国資金を貯め船を購入したこと、その船でハワイ経由で沖縄に上陸したことも語った。それはペリー来航(1853年)の2年前のことだった。万次郎は国際情報に詳しいことが評価され、島津斉彬、山内容堂、阿部正弘らから貴重な人材としてもてはやされた。さらに万次郎の国際通は、薩長土の志士や、幕府開明派たちにも評価され、こぞって万次郎から外国事情を学んだ。そんな万次郎は以降、幕府直参となり、日米和親条約締結や咸臨丸での太平洋横断で活躍、明治維新後は開成学校の教授に就任するなど教育者として活躍した。

◆ところが中濱氏によると、国際事情に詳しいことが仇となり、アメリカのスパイ容疑で条約交渉から外されたり、保守派から命を狙われたという。しかし、ジョン万次郎の素晴らしい点は、腐ることなく前向きに乗り切る「決して諦めない」という人生観。その背景には、彼 がアメリカから大事に持ってきた「J・ワシントン一代記」の存在があるという。一代記に感銘し、その生き方に共鳴したからではないかと中濱氏は強調した。

◆この日、中濱氏の話を聞いて思った。どんな環境下でも好奇心のある人は違う。好奇心があれば人生を切り拓ける。それが原動力となる。そんなことを教えられた気がする。それにしてもジョン万次郎の一生は本当に人の出会いに恵まれていた。そうつくづく痛感した。(圓山稔)



懇親会.jpg17時からは、会場を江戸連行きつけの酒亭に移しての懇親会。土曜日とあってか店は江戸連の貸切り状態。本日の講師、中濱氏にもご参加いただく。まずは生ビールで乾杯。暑い日にはこの一杯がたまりませんねえ。体中に慈雨が染み渡るような気分でござる。さらにもう一杯。

酒がゆきわたり、箸も落ち着きを見せたところで、ゲストや久方ぶりに講に参加の連衆のスピーチがはじまる。ときどきゲストとして参加していただいている荒井氏から江戸連に加入するとの意思表明もあり歓迎の拍手。会員は徐々に増え、知らぬ間に大所帯になっている。新しい仲間、古くからの友人、個性豊かな人、多士済々でワイワイガヤガヤと過ごすひと時を皆で分かち合う。連はますますつながりを強くしていると実感できますね。

そんななか、六月講の投扇興で活躍し初代優勝者でもある仲下氏から「投扇連」立ち上げの提案が出された。江戸連ではすでに「蕎麦連」(そば打ちの会)が2010年以来活動を続けているので二つ目の連内連の発足となる。8月中旬にはさっそくお披露目の会が催されるとのこと。ますます楽しみが増えた。中締め後は有志諸氏でさらに宴を続行。中濱氏も交えて21時30分まで宴は続いた。(松本崇男)


▼ジョン万次郎(中濱 萬次郎)
ジョン万次郎(ジョン まんじろう、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 明治31年(1898年)11月12日)は、幕末の日本で日米和親条約の締結に尽力した人物である。その後、通訳・教師などとして活躍した。ジョン・マン(John Mung)とも呼ばれた。本名は中濱 萬次郎(なかはま まんじろう)。

「ジョン万次郎」という呼称は、昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたため広まったもので、それ以前には使用されていない。(ウキペディアより)