長月講実施

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4634548615.jpg大原幽学と飯岡助五郎(髙橋敏著・山川出版社)講師 髙橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)

◆1.髙橋先生は「国定忠治の時代」「清水次郎長と幕末維新」「博徒の幕末維新」や「大原幽学と飯岡助五郎」などの著書をもつ、一級の江戸博徒研究家である。そして先生の博徒考察の面白さは、博徒を生み出した時代・地域経済の背景及び地域民衆の置かれた状況などを、古文書で丁寧にあたりながら「仁侠が受け入れられた時代」の中で歴史的存在としての博徒像を客観的に捕らえていることにある。

◆2.飯岡助五郎が活躍した江戸後期の下総地域は、醤油及び干鰯産業の勃興と利根川及び江戸湾水運を背景にして大活況を呈していた。九十九里浜は大漁で賑わい、俄か成金で大人も子供も銭遣いの粗い殺伐たる様相をなしていた。一方この地域はたくさんの旗本知行地が入り込む「無統治」状態で、しかも農業・漁業とそれに関連した商い渡世人が入り混じる荒々しい精神風土の地域であった。

◆3.こうした地域で、飯岡助五郎は地引網主「三浦屋助五郎」という表の顔を持っている。地引網漁法は収穫時には、舟の乗り手70人、浜で網を引き手200人という大量の労働力を必要とするという。荒くれ者を一度に大量に集め・統率できる人物として、元相撲取りの助五郎はうってつけであり、喧嘩や揉め事の仲裁役として地域の顔役になっていく。

◆4.しかし、彼にはもう一つ関東取締出役道案内という「十手持ち」でかつ「博徒」というもう一つの顔を持っている。醤油醸造主を父に持つ博徒の笹川繁蔵との血を血で洗う闘いは江戸でも評判になるが、これが講談や浪曲でお馴染みの「天保水滸伝」である。

◆5.経済的に活況を呈した下総地域には、たくさんの遊歴者が流れ込んできたが、その一人がさすらいの学者・寺子屋師匠の大原幽学である。彼の主張する農民の意識改革及び農村改革の運動はすさんだ地域の復興を目指す多くの農民の支持を得ていくこととなるが、「無宿人」という宿命のなかで悲劇的な結末を迎える。他方助五郎は自宅で68歳の天寿を全うする。

今回は大原幽学の話があまり聴けませんでしたが、11月のバスツアーに髙橋先生もご同行願えそうですから、じっくりお聴きできると思います。(圓山稔)


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そっちの世界の専門家(苦笑)
圓山:この本はまさに今日のお話をしていただく「大原幽学と飯岡助五郎」で、先生がお書きになられています。先生は1940年生まれ、東京教育大学をご卒業。現在は国立民族博物館の総合研究大学院の名誉教授をされ、多くの著作を出版されておられます。岩波新書の「国定忠治」、前回講演をいただいた「江戸の教育力」、またこれも岩波新書の「清水次郎長」など江戸の博徒と教育の問題を語らせたらおそらくこの人の右に出る人はいないだろうという方でいらっしゃいます。
 江戸連では、11月にバスツアーで房総に行きますので、その前段の勉強会として「大原幽学と飯岡助五郎」のご講演をお願いしました。それでは先生よろしくお願いします。
高橋:今回頼まれましたのは、飯岡助五郎、いわゆる博徒の話でしたから、大原幽学と二人の話をしますと、持ち時間が倍ないと語れません。もちろん大原幽学には触れますけれども、標題も「江戸博徒の実像」となっていますので、主に飯岡助五郎についてお話したいと思います。


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飯岡助五郎を必要とした社会
飯岡助五郎という人物は、助五郎という人物を必要とする社会的基盤、また時代の風潮から生まれてきますが、それがどういう基盤であったのかということを考えてみたいと思います。
飯岡助五郎が活躍した九十九里という浜を考えて見ますと、現在は九十九里はあまり大したことはありません。しかし当時は大変な賑わいでした。鰯を採り、この鰯は食べるよりほとんど干して干鰯(ほしか)として肥料にしたのです。この肥料を多くは畿内へ持っていきました。大阪やあの辺りは、当時一大米作地帯でした。江戸時代も中期から後期となりますと社会が非常に豊かになり、みなさん段々贅沢な衣装を着始めます。ほとんどの庶民が木綿を着るようになってきていました。この需要は全国的になり、それが畿内の方では田んぼを作って高い年貢を払うよりも、綿を作って、綿の実をとって、綿として売った方が儲かるという時世になるわけです。


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飯岡助五郎は戸籍を持っていた
ここで助五郎さんは、何とこの飯岡村に正式に移住します。だいたい博徒の研究というのは難しく、なぜ難しいかといいますと、歴史学でやる場合には資料がないのです。まして公式の文書はない。歴史学というのは資料がないと物が言えませんから、文字の世界というものから排除されたり、そういうものに近づかないような形で存在するものの足跡を確認するのが難しいのです。みなさんの手元にある資料をご覧になるとおわかりでしょうが、飯岡助五郎は正式のアウトローではありません。ちゃんとした戸籍をもっています。資料を見てください。文政5年の飯岡村へ移住したときの助五郎さんの借地証文が残っています。


 1.国立歴史民俗博物館
   大学共同利用機関法人人間文化研究機構
   国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)
 2.高橋敏先生の主な著書
   江戸の教育力 (ちくま新書)
   大原幽学と飯岡助五郎―遊説と遊侠の地域再編(山川出版社)
   国定忠治(岩波新書)
   清水次郎長 ― 幕末維新と博徒の世界(岩波新書)
   江戸の訴訟 ― 御宿村一件顛末(岩波新書)

天保水滸伝 大原幽学(富士映画1976年)
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世界で初めて農民を組織したといわれる大原幽学を主人公に、笹川繁蔵、平手造酒、飯岡助五郎など浪曲でお馴じみの「天保水滸伝」をからませて、その時代に生きた人間群像を描く。脚本は「わが青春のとき」の山内久、監督は「不毛地帯」の山本薩夫、撮影は「君よ憤怒の河を渉れ」の小林節雄がそれぞれ担当。

あらすじ
冷害が打ち続き、食べるものがなく、人が人を殺して食うような大飢饉が日本全土を襲った天保の頃。農村では、厳しい年貢のため土地を失ない放り出される農民が増えて、一揆が相ついで起っていた。そんな中で房総利根川周辺一帯は、産業資本をバックに十手を預かって権力を振り回す飯岡の助五郎(ハナ肇)と新興やくざの笹川の繁蔵(加藤武)の二大勢力が対立し、博徒の巣窟と化していた。そして利根川周辺の農民たちは、全国的な飢饉と利根川の相つぐ洪水で貧困と絶望に打ちひしがれていた。ここ長部村でも、農民たちの無気力な生活が続いていたが、この村には少しずつ変革が起っていた。この地に往みついた浪人、大原幽学(平幹二朗)の手によって、農業改革が始まっていたのである。しかし、農民たちが幽学の教えに従って村造りに励む一方では、助五郎、繁蔵による農民相手の博奕は止まず、足が抜け出せない農民たちはテラ銭を執拗に巻き上げられていった。ある日、借金のために娼婦に身を堕しながらも亡夫を慕い、農民の生活に執着する女、たか(浅丘ルリ子)がこの村に帰って来た。馴じみ客の一人、平手造酒の強引なひき止めにもかかわらず、たかの決意は堅かった。「雨の降る日も蓑笠つけて、夫婦で野良へ出る味は、知らねえもんには判らねえべが……」あらゆる逆境の中で生き抜いて来たたかの心は、幽学の教えにも固く閉されていた。「下手にかばい合えば人は腐る。バカや腑抜けは泣けばいい」たかの辛い体験から生まれた言葉は、幽学の胸を突き刺した。