神無月講実施

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案内 人間総合科学大学名誉教授・江戸連顧問 岡安克之氏

-「玉川上水・羽村取水堰」と「玉川上水・風の散歩道」(三鷹駅→井の頭駅)-
「玉川上水の史跡散策」は、JR新宿駅構内のDコーヒーショップ前で集合し、JR中央線快速「青梅行」に乗車して、「羽村駅」で下車。
 最初に訪れたのは「五ノ神社」の境内にある「まいまいず井戸」である。これは武蔵野台地の河岸段丘に700年ほど前に掘られた井戸だ。。直径16メートル、深さ6メートルほどのスリバチ型、その底に水を汲む井戸があった。この螺旋状の形がカタツムリ(まいまいず)に似ているために、方言で「まいまいず井戸」と呼ばれたのだ。
 次は臨済宗の「禅林寺」で、『大菩薩峠』を書いた中里介山の墓をお参りする。寺を出ると、多摩川へ向かう。左手にそびえる大樹が見えた。これが樹齢800年を超えた「羽村橋の大ケヤキ」である。
 そのまま玉川上水を越え、羽村堰下橋を渡り、玉川上水に係わる資料を見るために「羽村市郷土博物館」へ向かう。博物館の裏に重要有形民俗文化財の「旧下田家住宅」があった。弘化4年(1847)に建築された入母屋造り・藁葺民家は、この地方の典型的な農家の姿を残している。
 いよいよ「玉川上水羽村取水堰」である。南下してきた多摩川は、この堰の前方で左に折れ、「玉川上水第一水門」の前で今度は右曲し、ふたたび南下していた。多摩川の水路の流れを巧みに利用していたのである。さらに「取水堰」は、流れを止める「固定堰」と堰の高さを調節できる「投渡堰」の二種類の堰で構成されていた。現在も「玉川上水羽村取水堰」から流れ込んだ玉川上水は、小平監視所のところで「東村山浄水場」へ送られて、東京都の水道に利用されているのだ。
 最後に「羽村陣屋跡」を確認し、江戸の「長屋門」をつぶさに見ることができた。駅前のホテル・レストランで昼食をとり、JR中央線快速に乗車した。
 三鷹駅で降りて、玉川上水の「風の散歩道」を井の頭公園へ向かった。「風の散歩道」は緑の木々に覆われた、ゆったりとした緑の散歩道であった。しかし、「人食い川」と呼ばれるほどの水流も多く、急流を見せていた玉川上水が豊かな水流を失っているのは残念であった。途中、「太宰治が入水心中した場所」や「山本有三記念館」に立ち寄り、「井の頭自然文化園」に入った。最後の散策で、緑のオアシスを楽しみ、神田上水(神田川)の源流であった井の頭池を「七井橋」から眺めて、遠い江戸に思いを馳せた。



懇親会の写真縮小.jpg 玉川取水口など羽村周辺の散策と三鷹~井の頭間の玉川上水沿い散策で合計16500歩。
さすがにみなお疲れの様子で吉祥寺駅付近の居酒屋へたどり着く。一部屋を江戸連で借切りだったので、4つのテーブルに分かれたがゆったりした感じで懇親会を持てた。
参加者は19名(うち初参加は後藤さん)。私が座ったテーブルは小学校のクラスメート5人が集まる。小学校が杉並区(武蔵野市に近接)だったため、井の頭周辺への思いは強いものがある。岡安・新実さんらのテーブルは恐らく「玉川上水についての」補足講義があったのではと思っているし、また初参加の後藤さんらのテーブルでは、後藤さんとうちのカミさんが同じ前橋出身で「郷土の話題」がひとしきりされたらしい。
さらに田中・水越さんらの女性陣が占拠したテーブルも、何が話題になったかは知らないが、結構盛り上がっていた様子だ。2時間大いに飲み・食べて、新実代表の締めで有意義な懇親会を終了した。帰り際になってぽつぽつ雨が降ってくる。やっと傘が役に立ちそうだ。(圓山稔)

(6分50秒)


 1.玉川上水(ウィキペディア)
 2.玉川上水の歴史(東京都水道局)
 3.玉川上水郷土資料館(三鷹市教育センター)
 4.玉川上水散策地図(Kousuke Kimura)
 5.玉川上水探訪放浪★神奈川


大江戸から大東京へ。母なる川・玉川上水――「江戸・東京・時空論」 新実由無

玉川上水は、江戸の飲料水であるともに江戸・東京の経済・文化の礎となったのです。

1.用水により武蔵野台地農業化が進む
小麦・蕎麦、薩摩芋・唐辛子などの商品農産物経済の興隆、江戸経済の基盤を形成。大江戸の誕生
2.用水により水車の導入・開発が進む
精米による白米文化、小麦・蕎麦製粉による「江戸粉文化」の隆盛。「武蔵野うどん」、江戸の「そば切り」文化を生む。
江戸の製粉産業は明治には近代的な製粉産業である「日清製粉、日本製粉などの創立に発展していく。
幕末・明治維新の主要輸出品の絹撚糸・織物の生産を支えた。明治維新の軍需産業(火薬・武器製造)が興る。
3.上水、船運利用の誘惑
船運は一時的。甲武鉄道、後の中央線の敷設へ  → 東京西部開発を促す。軍需産業(飛行機・トラック製造)の立地化。中野・高円寺・荻窪・吉祥寺など住宅地開発の隆盛。
4.上水の水質管理の困難性
明治維新20年の政治闘争を経て三多摩の編入。
5.上水の役割縮小、淀橋浄水所廃止
東京都心副都心時代の始まり。大東京の誕生
6.なぜ玉川上水は井の頭池を目指す
現地を視察の感想。やはり玉川上水は神田上水の補完を考慮して計画された江戸住民の生命線であった。江戸時代一度だけ神田上水に補給した事実があった。

水車の導入・開発
玉川上水の支流は寛政3年(1791)頃には3上水と33の用水があった。玉川上水は江戸時代を通じて飲料水、火消し水に使用は限定されていたが、支流の上水、用水は水田を除く農業用水、水車などに利用できた。用水の開発が許可されると、水車の利用が盛んになった。水車の利用は「日本書紀」に、推古天皇18年時代の臼利用の記録が見られるが、一般には灌漑の揚水利用が多かったようである。元禄時代(江戸中期)から米搗きに利用されるようになり、利用方法の改革があったといわれる。この頃武蔵野台地では小麦の生産が盛んになったが、小麦の籾は米に比べ硬く脱穀が困難であったが、水車による脱穀はそれを容易にし、飛躍的に小麦の製粉化が可能になり、武蔵野、下総、上毛地域の粉文化が盛んになった。そして小麦粉の生産、集荷、販売流通の近代流通体制が確立していく。

水車と撚糸
 水車動力の撚糸機は天明3年(1783)桐生にて発明されたといわれる。文政7年(1825)には桐生に水車動力の積屋(賃撚り屋)が誕生し、各地に広まっていった。幕末の開国により主要輸出品となった絹糸・絹織物の需要が高まるにつけ、多摩、武蔵野、下野、上総など関東の絹生産地はいっせいに畑地の桑栽培を興し、水車動力による撚糸、織物産業に進出し、一大生産地になった。
鉄道の整備はこれにより一層拍車をかけられる事になった。

水車と軍需産業
 明治維新の近代産業導入時期の産業は軍需産業が主であった。火薬製造、大砲など武器製作、製絨産業には用水と水車動力が必要であった。千川上水:王子火薬・製砲工場、三田用水:目黒火薬工場、神田用水:水道橋製砲工場。

玉川上水の船運利用の要請と展開
 武蔵野の開発による農産物、製粉産物、絹製品などの運搬などの要請から享保から元文年間(1716~1741)になると、民間から製品の運搬のために玉川上水の利用を願い出る者が出てきた。幕府は一貫して上水の水質管理のため認めなかったが、慶応3年(1867)突然幕府による筏運による川下げ事業が計画された。それは幕末に急に多摩川の砂利を江戸で必要になったからであった。開国に伴い外国人の馬車利用のために道路修復の必要が出たからである。それは明治3年新政府によって実施され、最盛期には100艘以上の舟が多摩川上水を上下していた。それが明治5年(1872)には中止になった。これが後日の甲武鉄道の開通へと繋がっていく事になるのである。甲武鉄道は明治21年(1888)開通、明治39年(1906)国有化と成る。

三多摩が東京都? 悲願、玉川上水の水源地域を東京都に
 玉川上水の水質維持は江戸時代を通じて幕府の懸案問題であった。しかし幕末の動乱により水質管理に齟齬を来たし、水質の維持は困難になった。明治政府も新体制で十分な水質管理は出来なくなり、玉川上水の水質は極度に悪化して行った。東京府は現在の区部と制定され、玉川上水上流部、多摩地区は神奈川県になった。江戸時代多摩地区、神奈川{相模}地区は幕府直轄領の伊豆の国であり、江川太郎左衛門が代官として治めていた地域である。
 東京府警視庁は再三神奈川県に玉川上水の水質管理を取り締まるよう申し入れするが、埒が明かない。そこで明治6年(1873)三多摩を東京府に編入する議論が沸いてくる。神奈川県の反対、抵抗は激しく国政の場を揺るがす事態になる。明治26年(1893)三多摩の東京市編入が決まる。

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▼玉川上水の開削
 承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。
 工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります。)、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜線に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。
 翌年6月には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。
 兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。

開削以前の江戸の水事情
 天正18(1590)年、徳川家康は江戸入府に先だち、家臣大久保藤五郎に水道の見立てを命じました。藤五郎は小石川に水源を求め、神田方面に通水する「小石川上水」を作り上げられたと伝えられています。
 江戸の発展に応じて、井の頭池や善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする「神田上水」が完成したのは寛永6(1629)年頃とされています。一方、江戸の南西部は赤坂溜池を水源として利用していました。
 慶長14(1609)年頃の江戸の人口は約15万人でしたが、三代将軍家光のとき参勤交代の制度が確立すると、大名やその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口増加に拍車がかかりました。もはや既存の上水だけでは足りなくなり、新しい水道の開発が迫られるようになったのです。