師走講実施

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三田と高輪の坂と史跡巡り
案内人 江戸連 圓山稔氏・松本崇男氏

 集合時間30分前には、チラホラと集まり始めた連衆。45人の大所帯での講開催となったため、二班に分かれて出発することとなった。先発組は松本の案内で集合時間の午後1時を待つことなくJR田町駅を出発した。続いて圓山理事の案内で後発組が出発。好天に恵まれ今日の「三田・高輪の坂と史跡巡り」も楽しめそうな予感。

 まずは薩州蔵屋敷跡へ。慶応四年(1868)3月14日、江戸開城について勝海舟と西郷隆盛が会見した場所で、今は記念碑が建っている。予定外だが薩州蔵屋敷跡横の鹿嶋神宮へ立ち寄る。門前をJRの線路が横切っているが江戸時代は海であった場所。江戸の切絵図には鹿島明神に隣接して沙濱とあり、落語「芝浜」の舞台となった雑魚場跡であり、芝エビの名もこの地からうまれた。
 第一京浜を渡って三河岡崎藩・水野家芝三田屋敷跡へ向かう。赤穂義士9名がお預けとなり自刃した場所だが、今は飲食街でわずかに都の解説板が立つだけだ。
概要3.jpg 飲食街をぬけ、慶応大学正門前を通って綱坂へ向かう。三田には綱坂、綱の手引き坂、綱の産湯の井戸など、渡辺綱(平安時代の武将)の伝説に由来する史跡が多い。綱坂を上り、綱の手引き坂を下って桜田通りに出て再び慶応大学前に戻る。この一角は江戸時代、島原藩松平家(現在は慶応大学)、会津藩松平家(現・綱町三井倶楽部)、佐土原藩島津家(現・綱町三井倶楽部)、松山藩松平家(現・イタリア大使館、大石主税ほか10名お預けの地)、久留米藩有馬家など(現・かんぽ保険事務サービスセンター、赤羽小学校、三田高校など)、大名屋敷が建ち並んでいた所。綱坂あたりはわずかにその雰囲気を残している。実際に歩いてみると大名屋敷の敷地の広大さに驚かされる。
 札の辻は、江戸の一時期高札場があったことから今も地名として名が残る。サンタ姿に仮装したオートバイの一団が手を振り通り過ぎていく。そういえばクリスマスが近い。札の辻交差点を右折して第一京浜を品川方向へ向かって歩く。三田ツインビルの敷地の一角に元和のキリシタン殉教遺跡がある。
元和九年(1623)イタリア人神父ら50人が火刑に処された地である。ここからエレベーターで台地上に上ると聖坂上に出る。台地下が標高5m、台地上は標高20m。エレベーターを降りるとそこは崖地で標高差がよく理解できる場所だ。一行は、聖坂上の済海寺(フランス公使館跡)前を通り亀塚公園へ。寺・公園ともに菅原孝標の女が『更級日記』に書いた竹芝寺跡と伝えられる場所だ。亀塚公園には江戸時代ここに屋敷を構えた沼田城主・土岐頼熙(ときよりおき)が建てた「亀山碑」が残る。ここ亀塚公園で休憩。後発組の到着を待って記念写真を撮る。ふたたび二班に分かれ、幽霊坂を下って三田寺町へむかう。
概要2.jpg 玉鳳寺(化粧地蔵尊)、長松寺(荻生徂徠墓)、魚籃寺、薬王寺(加賀千代女「朝顔に釣瓶とられてもらい水」に所縁の朝顔の井戸)を訪ねてから熊本藩細川家下屋敷跡へ。屋敷跡の一画に大石内蔵助ら17人の赤穂義士がお預けとなり切腹した場所が保存されている。ここで江戸連とは別の団体に遭遇。12月ともなると忠臣蔵ゆかりの地を訪れる団体が多いようだ。彼らの見学の終わるのを待っている間に、再び後発組と合流。以後はともに歩く。細川家は、水野家とともに赤穂義士の取り扱いが丁重で世評もよかったと云う。「細川の水の流れは清けれど、ただ大海の沖ぞ濁れる」と落首が残る。四家に預けられた赤穂義士ゆかりの大名屋敷のうち、今日は水野、松平、細川の三家の屋敷跡を訪ねたことになる。路地を抜けて義士たちが眠る泉岳寺へむかう。12月14日に義士祭を終えたばかりだが墓参の人たちは相変わらず多い。我々もそれぞれに線香の煙る義士墓地に入り墓参する。
 ここで予定変更。泉岳寺を出た後、伊皿子坂を上り、潮見坂を下って大木戸跡へ向かう予定を、新実代表理事が願生寺の拝観許可を得ていただいたとのことで、泉岳寺から願生寺に立ち寄り大木戸跡へ向かうコースに変更した。願生寺にある文政十一年(1828)再建(はじめの碑は元文三年・1738建立)の牛供養塔を訪ねたのち、忘年会の会場前をいったん通り過ぎて今日の最終目的地・高輪大木戸跡へ。忘年会の開始予定時間16時をすぎたので、希望者だけで高輪大木戸跡を見学し、あわただしく忘年会場へ駆けつけた。今年最後の講、ご参加いただきありがとうございました。皆さまお疲れ様でした。(松本崇男)



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 江戸連恒例の師走講は空っ風吹くまち歩きですが、今日は風一つ無い、青空のもと、健脚の松本「坂博士」に率いられ坂をアップダウン。日頃の運動不足でついて行くのがやっとこ。夕暮れも迫る最終コース、高輪大木戸。忘年会会場の「笑笑・泉岳寺駅前店」の前を横目で見ながら通り過ぎ、それでも熱心な連衆は大木戸に向かう律儀さ。ご苦労様でした。
 忘年会ということもあり空前の人数で、かろうじて席に収まった連衆に、チョッと待った。コンピューターの利用環境アンケートをさせてくださいというのがなんと辛いことか。しかし連衆のなんと暖かい気持ちに支えられ、苦情も無く終了。改めて感謝、感謝。きっと良い情報をお送りいたしますよ。不明なことはお教えいたしますと佐々木さん。

 乾杯のあと、どよめきと共に酒を注ぐ皆さんの顔には満足感と、安堵感があふれ良い顔していますね。年々お酒に強くなって行く面々。若い若い!・・・今年は色々大きなことがありました。東日本大震災、原子力発電所の爆発。現役から離れている人の多い江戸連のメンバーですが皆さん苦衷に満ちた一年の重苦しさを払い退けたい気持ちでいっぱいです。
 来年の忘年会はもっと人数が増えるだろうね、どこでやろうかと取り越し苦労の圓山事務局長。会費の事前振込みでお酒を皆さんと一緒に“初めから”楽しめる山下会計担当。10周年記念誌の編集に目途をつけ余裕の長谷田編集長。それに新米の代表は今年の事はどうぞ由無にと。連衆にはほんとうにご協力有難うございました。いい年をお迎え下さい。(新実由無)

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泉岳寺

忠臣蔵・討入り後の義士
元禄十五年(1701)12月14日、吉良邸に討ち入った赤穂義士47名は本懐をとげ浅野家の菩提寺高輪泉岳寺へ引き上げ。
元禄十五年(1701)12月15日、泉岳寺から大目付、仙石伯耆守の屋敷(現・虎ノ門のニッショーホール)へ移され取り調べを受けたのち大名四家へお預け。肥後熊本藩・細川家54万石に大石内蔵助、片岡源五右衛門ら17名。
伊予松山藩・久松(松平)家5万石に大石主税、堀部安兵衛ら10名。長門府中藩・毛利家5万石に岡島八十右衛門、前原伊助ら10名。三河岡崎藩・水野家5万石に間十次郎、神崎与五郎ら9名。元禄十六年(1703)2月4日切腹。
泉岳寺
慶長十七年(1612)徳川家康が外桜田に開いた曹洞宗の寺。
寛永十八年(1641)寛永の大火で焼失したため、三代将軍家光の命で毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の五大名に命じて現在の地に再建。浅野家と寺の縁はこの時以来のもの。
荻生徂徠
寛文六年(1666)~享保十三年(1728)江戸時代中期の儒学者。
元禄九年(1696)五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保に仕える。綱吉の死後、柳沢吉保の失脚のため日本橋茅場町で私塾蘐園塾を開いた。享保七年(1772)八代将軍吉宗の信任を得、諮問に与る。赤穂浪士の処分裁定で、林鳳岡、室鳩巣らの義士賛美論に対し義士切腹論を主張。