20120714文月講実施

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04.jpg講演 「いき」の歴史的背景

講演と報告:江戸連会員 荒井孝昌氏

 いきという言葉がある。現代でも使われるが、あらためていきとは何かと問われると答えるのは難しい。一言でいえばいきとはかっこいいことである。しかしかっこよさにもいろいろある。文金高島田の花嫁もかっこいいがいきではない。
 『江戸語大辞典』によれば「いき(意気)は明和頃深川の岡場所に流行し、のち一般化した語。粋であること。あかぬけしていること。洗練された美があること。しゃれていること。」となっている。このいきという言葉を哲学的に分析し論じたのが九鬼周造である。
 九鬼周造は男爵九鬼隆一の四男として1888年(明治21)東京芝で生ま03.jpgれ、1941年(昭和16)京都で没している。一高から東大に進み大学院に10年在学し、卒業後1921年(大正10)にヨーロッパに留学。フランス、ドイツで哲学を学び、1929年(昭和4)帰国後、天野貞祐の招きで京都大学哲学科講師となりのち教授、という経歴である。この九鬼周造が1930年(昭和5)に出版したのが『「いき」の構造』で、その要点は以下の通りである。
 いきは媚態と意気地と諦めの3要素からなっている。媚態は色気のことでその源は緊張感にある。意気地は江戸文化の道徳的理想が反映されたもので、武士道の理想主義から生まれたものである。諦めは執着を離脱した無関心で、仏教の非現実性を背景としている。即ちいきとは、垢抜けして(諦め)張りのある(意気地)色っぽさということができる。
 この3要素に基づいて具体的に姿や形や色を示している。まず全身に関しては姿勢を軽く崩すことがいきである。色気も必要であるが、裸体ではなく、うすも05.jpgのを身にまとうことである。したがってビーナスはいきではない。図形としては平行線の縞模様がいきである。色は灰色、茶色、青色の3系統で、いきのうちの諦めを色彩として表せば灰色が適切である。
 以上のように九鬼周造はいきを哲学的に論じたが、なぜ江戸で生まれたのかという歴史的考察は行っていない。そこでいきがなぜ江戸で生まれたのかということを考えてみようと思う。
 江戸という街の特徴はいくつかあるが、その第一は男と武士が多いことである。江戸は武蔵野の原野に作られた人工の大城下町だから、大工左官などの建築関係者を大量に必要とした。また三井越後屋などの江戸店は男所帯で女はいない。そのため享保頃の江戸町方人口50万のうち男は32万女は18万で、およそ男2人に女1人ということになる。武士も旗本御家人には家族があるが、藩の江戸屋敷には男が多いから、武家人口50万のうちやはり女性は少数である。このように江戸は男と武士が多かったから、武士と町人のいざこざも多かった。九鬼周造はいきの中の意気地を武士道からきて01.jpgいると見たが、江戸という街を考えると、町人の武士に対する抵抗の精神から意気地が生まれたと見ることができる。
 江戸のもうひとつの特徴は火事が多いことである。日本橋近くの歌舞伎の中村座と市村座は明暦3年(1657)の明暦の大火から天保12年(1841)までの185年間に33回全焼している。5年から6年に1回全焼したことになる。日本橋は江戸時代に10回焼け落ちている。火事と喧嘩は江戸の花というが、そうとでもいわなければ江戸では生きていけなかったのであろう。
 九鬼周造はいきの3要素のひとつ諦めを仏教からきているとするが、根底には仏教の諦念があるにせよ、江戸では火事で一切を失う生活を受け入れなければならず、そこからものに執着しないきっぷのよさが生まれたのだろう。九鬼周造がいきの中に諦めを見い出したのはすばらしい着想だと思うが、この諦めは江戸の火事という災難と深く結びついているように思える。


(冒頭より抜粋14分)



(3分30秒)

九鬼周造
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▼父は明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼嘉隆。母は周造を妊娠中に岡倉天心(隆一は岡倉のパトロンであった)と恋におち、隆一と別居(のち離縁)するという事態となった。生みの父・隆一、精神上の父・天心、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、ヨーロッパ諸国へ足かけ8年間ものあいだ留学。帰国してからは、1941年に没するまで京都帝国大学文学部哲学科教授として、デカルト、ベルクソンをはじめとするフランス哲学や近世哲学史、現象学を中心とした(その当時の)現代哲学などを教えた。
▼ヨーロッパの長期滞在の中でかえって日本の美と文化に惹かれていく自分に気づいていった彼は、帰国後、その洞察を活かして『「いき」の構造』(1930) を発表する。これは、日本の江戸時代の遊廓における美意識である「いき」(粋)を、現象学という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文である。この著作が生まれた背景には、彼の生い立ちや独特の美意識、ヨーロッパという異文化体験、思想遍歴といったものが幾重にも交錯しており、そのことによってこの著作は、哲学書・美学研究書・日本文化論そのいずれの枠にも収まりきらない異色の書として、日本思想史上、際立った存在となっている。(ウィキペディアより抜粋)