20120818葉月講実施

ホームへ.gif____前へ.gif

次へ.gif

ビルボードタイトル影付き.jpg
ビルボード.jpg



00.jpg講演 江戸の酒:諸白の造りと酒の味

講演と報告:江戸連会員 宮川 都吉氏

日本の酒は古くからきわめて独創的な創意工夫で造られてきた民族の酒である。酒造りには現代の科学で見ても合理的で巧妙な工夫が随所に見られる。麹菌の働きで米を糖化する「麹造り」、純粋な酵母液(スターター)を得る「酛造り」、醪の三段仕込みと並行複発酵、酒の「火入れ」殺菌技術などである。微生物も知らずに編み出された江戸時代の酒造り工程が、基本的に今日も変わっていないことには驚かされる。これらの酒造技術は、世界に冠たる今日の日本のバイオ技術を支える、我が国が誇るべき伝統技術といえる。 
14江戸の酒は諸白.png江戸の酒は諸白
江戸の酒は麹米、掛け米の両方に精白米(玄米でなく)を使用する「諸白(もろはく)造り」で、江戸時代には上質な酒の代名詞であった。玄米表面には油分やたんぱく質が多く含まれるので、この部分を糠として除くと、雑味が少なく澄んだ味の酒ができる。大消費地江戸のぜいたくな欲求に応え、摂津地方の池田・伊丹・鴻池などでいち早く諸白造りが取り入れられた。当時の精米は専ら人力による足踏み式であったため、精米に大変大きな労力が費やされた。江戸後期の灘では急流を利用する水車精米が可能になったが、これは灘目が酒の産地として大発展する要因になった。
江戸の酒を表すもう一つのキーワードは「寒造り」で、これも上質の酒を造る条件であった。江戸初期までは真夏を除く年中酒を造っていたが(「四季造り」)、特に冬季には雑菌の少ない清浄な空気のもとで良い酒ができたことから、また酒造期間を寒造りに限った方が幕府も蔵の酒造石高を管理しやすいため、“寒造り以外の禁”で寒造りを命じた(1673年)。寒造02足踏み式精米.png足踏み式精米 日本山海名産図会より りには、農閑期の農民が杜氏や蔵人として酒造を担えるメリットがあり、今も続く杜氏(とうじ)制度は寒造りと共に始まったといわれる。
江戸期における諸白酒の産地は摂津地方が圧倒的で、江戸期前半は大坂(池田・伊丹・鴻池)、後半は灘目が中心産地であった。酒は初期には東海道を馬で、次いで各種の“下りもの”物資と一緒に菱垣廻船で、また1730年以降は専用の樽廻船で江戸に運ばれ、「下り諸白」や「富士見酒」といわれて高値で取引された。海路で江戸に運ばれた酒は霊岸島の新川や茅場町周辺の酒問屋を経て市中に流通した。

元禄期における諸白酒の江戸入津量はすでに年間数十万樽(一樽は4斗)に達しており、江戸では飲酒が日常化・一般化していたことを物語っている。豊作で酒を無制限に造れる「勝手造り」が続いた文化文政期(1804-1830)に入津量は最高潮に達し、毎年100万樽を超えた。182103洗米.png洗米 日本山海名産図会より年が最高で122万4000樽となり、この頃は一人当たり(老若男女ひっくるめて)年間一樽(=40升)消費したので、諸白酒を毎日一合以上も消費していた計算になる。江戸ではこれに加えて地回り酒や焼酎も飲まれていた。今日の成人一人あたりの飲酒量は各種酒類合わせた量(うち70%はビール)が1合程度である。日本酒の消費量に至っては0.1合にも満たない程に落ち込んでいる。江戸では我々よりずっと多くの酒を飲み、楽しんでいたことになる。 

江戸期の酒は原料(麹と掛米)の高濃度仕込みにより造られていたため(加える水は今日の半分以下)、酒は非常に甘く、濃厚な酒質と推察される。江戸には過酷な肉体労働に従事していた人が多かったので、疲労回復に甘い酒が好まれたと考えられる。本講演会では、元禄期の製法に従って造られた復刻酒「江戸元禄の酒」(伊丹の小西酒造製)を試飲しながらこの点を確かめると共に、多少なりとも江戸気分を味わうことができた。当時は「新川へ玉川を割る安い酒」と川柳に詠まれ、また酒に加水することを“玉06酒母造り.png酛(酒母)造り 日本山海名産図会よりを利かす”と言っていたので、玉を利かせた元禄酒も試した。

江戸の料理屋の床の間にはどこにも”武蔵野盃”(野見尽くせない → 飲み尽くせない のシャレ)という大盃が飾られていたと言われ、飲み比べ会が広く行われていたことを示している。特に酒が潤沢な化政期に盛んで、文化12年の千住の飛脚問屋中屋六右衛門主催の「千住の酒合戦」で松屋勘兵衛は9升2合、大熊左兵衛は7升5合飲んだという話が伝えられている。また文化14年の両国柳橋の料亭「万八楼」の飲みくらべ会は江戸第一の盛会といわれ、堺屋忠蔵は3升入り大盃で3杯(9升)、鯉屋利兵衛は6杯半(1斗9升5合)をあけたという。しかし「万八(ぱち)楼」の会は”嘘っぱち”とのうわさもあったという。
酒造米と食料米は互いに競合するため、江戸期の酒造米は幕府によって米価の極端な変動を防ぐ調整弁として機能させられた。豊作続きには「勝手造り令」で酒造を奨励し、凶作や飢饉で厳しく酒造統制をしたため、酒造業は振り回され続けた。例えば宝暦4年(1754)から30年間は豊作で勝手造り期間であったが、その後は天明3年(1783)の浅間山噴火に07もろみ造り.pngもろみ(醪)造りは“三段仕込み” 日本山海名産図会より始まる異常気象による凶作・飢饉でコメ不足が続いたため(天明飢饉)、「三分の一造り」の減醸令が出された。その後の文化文政年間(1804-30)は豊作続きで、勝手造り令により石高制限は撤廃され、再び自由化時代に入った。化政期のこの酒造最盛期を転期にして灘が大躍進し、その勢いで逆に大坂は衰退してしまった。 

関東産の地元酒は江戸っ子から「地廻り悪酒」、「下らない酒」などと蔑まされていた。関八州は幕府直轄領にも拘らず、酒も含めて産業は一般に不振で、経済は極端な西高東低であった。このため関東の産業を振興し、関西への金銀の流出を抑える必要があった。天明の飢饉による減醸令と灘酒の厳しい排除により、江戸が深刻な酒不足に陥っていた好機に、寛政の改革(1789)の一環として、幕府の肝いりで「御免関東上酒」のプロジェクトを発足させた。これは恩典を付して関東の酒屋に上質の諸白酒を造ることを奨励したものであった。しかし、過保護政策のもとの酒造では品質が安定・向上することなく、その後も諸白造りは軌道に乗らないまま文化3年の「酒造勝手造り令」で酒造界は自由競争時代に入ったため、「御免関東上酒」はついに幕引きとなった。結局、江戸期には最後まで安定して良い諸白酒が関東で造13酒合戦2.pngれる体制はできなかった。  

江戸期の飲酒は、それまでの「ハレの酒」からすっかり一般化・日常化し、江戸で酒が大量消費されるようになった。これを可能にした要因は何といっても大消費地江戸の上質の酒に対する強い欲求(それも経済力に裏打ちされた)と、これに応えた関西の酒の生産、輸送および流通体制が立派に機能したことであった。米を原料にする酒造りは、時の政策(寒造り令、減醸令、勝手造り令)に振り回されながらも、易しくない製造工程で造られる諸白酒を安全かつ大量に生産する体制(蔵元・杜氏制度)を確立、菱垣廻船・樽廻船による輸送、江戸新川の酒問屋さらには小売り酒屋を介して江戸中に酒を行き渡らせた、生産・輸送・流通システム構築の総合力の発揮は見事というほかない。我が国は近年自動車、電気製品、エレクトロニクスなどの産業で、高品質な商品をもって世界市場を席巻したが、江戸期の酒造産業の繁栄にその兆しを見た思いがする。


(冒頭より抜粋15分)


江戸元禄の酒(復刻酒)
genroku.jpg

▼江戸時代にタイムスリップできるお酒
小西酒造を創業した小西家に今もなお残されている
元禄時代の酒造りを記録した秘伝書「酒永代覚帖」
中でも確認できる、もっとも古い記録に従って再現された、江戸は元禄時代の酒を復元したのが 「江戸元禄の酒 復刻酒 原酒」
現代の造りと比較して、仕込水は半分ほどしか使用しないため濃厚な口当たり。
また、精米技術が今ほど発達していなかったため、玄米に近い精米となり、奇麗な琥珀色になるのが特徴。

▼【江戸時代の酒、復活?】
伊丹在住で神戸大学に勤める石川道子先生から話を持ちかけられる。
「こんな古文書があるんですが、作ってみませんか?」
石川氏は、博物館に納められている古文書の整理を行っていた。
その中に、小西酒造が昔から書き納めていた文書があったのだ。
その名は「酒永代覚帖」
300年前、元禄時代から明治の初期に至るまでの、酒造りに関する覚書が示されていた酒造秘伝書だった。

ものづくりの挑人たち」より