皐月講実施

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0209.jpg船上で解説する新実代表平成23年5月15日に開催した皐月講だが、企画の動機を若干説明してみたい。江戸連は、江戸文化を探れば探るほど隅田川、神田川などの水運と水辺の町の賑わいに深い関心をもってきた。平成19年葉月講では「江戸の“渡し”と“橋文化”」をテーマに隅田川の河岸巡りを行った。江戸の橋の由来を尋ね、震災復興橋巡りをするなか、これらの橋をデザインした橋梁技術者たちは、江戸時代の隅田川文化を意識し、近代的な景観デザインを行った人たちであったことを知った。それ以来、次は「江戸の街づくりと共にあった日本橋川・神田川の橋巡り」だと決めていた。そこで「日本橋架橋100年」を記念する今年、頃は良しと決行した。

徳川幕府は、江戸城と城下町をつくるのにあたって、日比谷入江からの船での戦いを仕掛けられることを回避するために埋立を開始した。その結果、入江に流れ込む平川、小石川の流路を替える必要と、築城の資材運搬の水路を確保する必要から道三堀、日本橋川を開鑿した。その後神田川の開鑿により、平川、小石川は流路を替え、江戸の城下町は完成した。川筋には多くの河岸が出来、橋が架かり、街が賑わい、江戸文化が花咲いた。江戸の発展はここから始まる。最盛期の河岸は140カ所ほどあったという。日本橋川・神田川名橋巡りは河岸巡りでもある。

皐月講では、新設なったばかりの日本橋船着場から総勢40名で出発した。
高速道路に覆われてしまった日本橋川だが、日本橋の威容は圧倒するものがあった。日本橋を構想した徳川旗本出身建築家・妻木頼黄の「江戸への思い」が成せるその執念がひしひしと感じられる。神田川、新緑の御茶ノ水渓谷。江戸の景勝地との言い伝えは、平成の今にも脈々と伝わるその美しさがあった。橋は川面から見るに限ること、そしてそこに重々しく遺る“江戸”を再確認した橋巡りであった。

江戸連代表理事 新実 由無



RIMG2684.jpg懇親会場(鮮魚が旨い!築地市場 門前仲町店)にて江戸連の講は、実は受講後に恒例の懇親会を楽しみにしている連衆も多い。
質疑の続きに、同好・同郷・元同僚に同窓、友人などもいて談論風発大いに盛り上がる。講の企画もさることながら、一堂に会して打ちあげをするこの会場選びが、実は企画の腕の見せ所である。なにしろ「江戸」を標榜しているので、なまじの店では連衆に申し訳が立たず。筋の通らないお代など頂戴する訳にも参らぬ。で、企画担当がじっくり情報収集し、かのミシュランならぬ実地調査をするのも稀ではない。皐月講は幸いにも好天に恵まれてオープンエアーデッキで2時間の船路。皆さん、喉も空々で早くビールジョッキにありつきたいと会場へとすっ飛んだようだ。1週間前に会計業務を引き継いだばかりの新米が、船会社との精算にモタモタしている内に、周りには連衆の人影は既に無く呆然。肝心の懇親会場の地図も失念してしまっていたが、さすが下町、行きずりのちょっと姿の良いお嬢さんにうろ覚えの所番地と「お店の雰囲気」を言ったら事も無げに教えてくれて、おおラッキー、打ち上げの乾杯に間に合った。連にぴったりの雰囲気のお店で酒と料理を楽しんで恒例の一本締めにてお開き。二次会で尽きぬ話を続けた連衆もいたとも。

江戸連理事 山下 武彦


 

2011年5月15日 日本橋川・神田川名橋巡り・周遊編


2011年5月15日 日本橋川・神田川名橋巡り・名橋編

 

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 1.時・空・江戸論 - その六 「日本橋川・神田川の名橋巡り」(新実 由無)


 1.集合場所の日本橋交番下広場
 2.終点の東京水辺ライン越中島発着場
 3.今回名橋巡りをした船の会社・㈱ジール(東京・横浜クルージング)


株式会社ジールおよび小倉専務には大変お世話になりました。
計画段階では越中島発着所出発だったところを日本橋発着所に変更していただくなど、細かなところで配慮していただきました。
改めてHP上でお礼申しあげます。

▼徳川家康の入城当時の江戸の原形
当時の江戸は品川、浅草とともに中世・関東の主要市域で、多くの寺院、市があり、水上交通を通じての問屋などの存在も確認され、中世都市の形態をなしていた。その中でも江戸は鎌倉、北条など戦国時代を通して政治都市の形態をなしており、寂れた寒村ではなかったというのが最近の中世研究者の見解である。

▼江戸城と行徳を直結する小名木川の開削と千鳥が淵・牛ケ淵の造成
徳川家臣団30万人を超す人口の大激増に対する塩と飲用水確保の手段として行われた。

▼日比谷入江
日比谷入江埋め立ては、すでに天正期に意識されていて、平河バイパスの建設が考慮されている。
江戸城防備の観点から、外敵の船が日比谷入江から江戸城下に侵入することを防ぐ必要があった。
いまひとつは、大阪にひけをとらない、天下の総城下町にふさわしい広の宅地、特に大名屋敷の集中を必要としていたため、早くから埋め立ての方針であったことが分かる。

▼四日市・江戸橋
江戸橋と日本橋の間、川より南の方を大路(おおじ)という。昔は毎月4日の日に市を立てた所といい、江戸中ごろからはその名残で、野菜、干物などの市が立って賑やかだったという。江戸橋広小路はこの市の繁盛を物語っている。

▼日本橋
日本橋の名の起源は諸説ある。お日様を拝める処、江戸五街道の起点、富士と家康の駿河を眺望できる橋、などなど。いずれにしても江戸一とは日本一ということで、誰云うことなく人々は日本橋と呼ぶようになった。
東海道に向けて橋を渡ると通一丁目の広小路。右手に高札場がある。幕府のおふれを告知するにはもってこいの場所だ。その向かいには晒し場がある。現在の交番と日本橋乗船広場である。

▼鎌倉河岸
家康は秀吉の命を受けて、太田道灌の築いた江戸城に入城する。直ちにすさんだ城の改築に乗り出す。相模の国から材木石材(石垣用)がここに運びこまれ、鎌倉から来た材木商が築城に伴う部材を取り仕切る。ゆえにこの荷揚げ場は鎌倉河岸と呼ばれるようにる。鎌倉河岸はこのときから江戸一番のにぎやかな町となり、まさに「江戸っ子だってね、神田の生まれよ」と云われるようになった。

▼日本橋物語
日本橋は江戸時代の慶長8年(1603)創架以来、日本橋地区を代表するランドマークであった。現在国道に架かる国内唯一の現役石造アーチ橋として平成11年5月に重要文化財の指定を受け、平成23年には架橋100周年を迎える。