幕末の房総文化を訪ねる
案内人 江戸連代表 新実 由無氏
訪問記
待ちに待ったバスツアー。 4月2日に予定していた大原幽学関連の研修ツアーは3月11日の関東・東北大震災の為に中止。その後訪問地の旭日市が津波被害を受けた事が分かり再開が待たれていたが、先ず9月(長月)講で大原幽学の研究者である高橋敏・国立歴史民俗博物館名誉教授による「大原幽学と飯岡助五郎・江戸博徒の実像」の講演とのリレー企画として11月(霜月)講が実施されました。
いつものお天気の心配も、またまた好天に恵まれ。早朝東京駅前、御幸通りを出発、幽学の里へ。案内は江戸連代表理事・新実由無。恒例の時・空・江戸論・その九―「東総江戸文化論・農村社会と漁村社会」にのっとって車中にて一語り。
◆東総江戸文化
東総とは上総と下総の隣り合う太平洋に面する地域です。この地域は中世末の頃から紀州海民の訪れるところであり、神社、寺院の紀州、熊野伝説の多いところです。銚子という地名は無く、常陸川(後の利根川)の川口一帯の総称として、お酒をつぐお銚子の形に似ていることからそう呼ばれたという伝説が語り継がれています。近世史の始まりは寒村であったが、紀州漁民が訪れる頃から醤油文化と共に、江戸初期の東廻米海運と共に銚子湊として登場してきました。しかし銚子湊は何処に? 今、定説が逆転される。
寛永―正保年間(1624-48)紀伊国広村(現、広川町)の崎山次郎右衛門が関東出漁、寛文元年(1661)外川に築港、町割を行うと紀州その他から多くの漁民、商人が渡り住むようになり、干鰯産業の隆盛時代が到来する。
寛文10年(1670)辻内刑部左衛門による椿の海の干拓が始まり干潟八万石(実際は故あり江戸時代では2万石)と言われる新田の出現により経済的には大きく発展し豊かな東総を形成してきた。その中で寺子屋が盛んとなり、千葉の筆子塚3千と言われるほどに、又、利根川下流域の和算文化の盛況と共に、江戸から多くの文化人が度々この地を遊歴している。
しかし幕末に至って、鰯漁の衰退や、度重なる飢饉により民衆の生活破綻が進み、潰れ農民の発生や、博徒の広がり、所謂「天保水滸伝」の社会が大きな社会問題となってきた。
このような世情を反映し、この地に宮負定雄を中心にした下総国学が広まり、平田篤胤の来歴も記されている。そして大原幽学がこの地を訪れ、下総国学を学んだ者たちが幽学の弟子となり、長部村(現旭市)に定住する事になる。
◆大原幽学遺跡・記念館訪問
大原幽学の思想と仕方:大原幽学は農民や商人に性学(儒教を基とする、欲に負けず人間の本性に従って生きる道を見つけ出そうという学問)を説き、実践を指導してきた。その基本は荒廃に瀕した農村の潰れ農家の再興にあった。永世相続、経済的復興の大きな方針の下、弟子には神門(入門の誓約書)を入れさせ、女性、子供の教育など教育的実践(仕方)を、そして先祖株組合を結成、住居改善、共同購入など、また耕地整理、集落の再編、農業技術の改善(正条植え)などの農業的実践(仕方)を行い成果を挙げてきた。
しかし、幕府の関東取締出役差し回しの博徒のいざこざに巻き込まれ囚われの身と成る。幽学記念館学芸員の見解では嫌疑は農地整理にあったという。この時代農地は幕府による検地で定められており、耕地整理は体制の許されざる掟だったと言うものである。6年に渡る江戸訴訟と、100日の押込のあと長部村に帰ったあと武士道に忠実に、自刃して果てるのである。幽学の評価は明治、大正、昭和と時代の移り変わりに伴って再評価されてきた。社会学者タカクラテルによる大原幽学伝を下にした山本薩夫監督、「天保水滸伝と大原幽学」の再評価がされるのも間近か。
この度の幽学記念館訪問時には昨年行われた幽学の住居の解体修理の際見つかった幻の幽学真筆による「微味幽玄考」が展示、更に小皿に凝結した幽学の血が展示されていたのには驚きと共に、幽学の生身を見た興奮を禁じえなかった。
◆外川漁港と外川ミニ郷土資料館訪問、そして銚子の紀州文化
外川ミニ郷土資料館は紀州漁師の子孫、島田氏が開設した私立資料館である。館長の島田泰枝、なき夫が日頃、町の人にお世話になっていると感謝していた思いを、恩返しにと開館にこぎつけたという。その後地域の人が外川に残る遺品を次々と持ち寄り現在に至っているとのこと。失われ行く地域の遺産を収集展示していくことは簡単に出来そうで、なかなか困難なことであろう。開館から4年、銚子を研究する人たちのメッカになりつつあるかに見える。説明は館主息子の政典氏。銚子の漁師言葉で崎山次郎右衛門の銚子回遊の物語、銚子の漁業の昔と今の話に熱が入る。銚子の金目鯛は「銚金」と云われるほどの貴重な魚だそうだ。お昼の食事の大皿に盛った金目鯛の煮付けがことさら貴重に思え、改めて舌なめずりをした次第である。
江戸初期の漁師町の街路が今に残る海に下る道と、階段状の路地空間が紀州の漁師の息使いを今に伝える町であった。
◆銚子の紀州人文化
銚子には醤油文化と漁師の文化があるが共に紀州方面の漁師、商人によって伝えられた文化である。銚子の醤油は紀州湯浅の流れ、野田のそれは上方近江の流れと言われる。銚子の「ヤマサ」は紀州の人、浜口儀兵衛が正保2年(1645)に創業。元禄ごろより本格的に醸造を始めたという。「ヒゲタ」は銚子飯沼村の草分名主であった田中玄蕃が西宮出身の海産物問屋に教えられ、元和二年(1616)に創業したといわれている。その田中玄蕃は大豆を主とした紀州醤油に麦麹を入れ、香と濃い味の醤油を開発、江戸町民に大いに好まれたという。代々銚子の街づくりに力をいれ、銚子で“様”の付くのは(飯沼)観音様と田中様と言われるほどであるという。明治以降銚子の紀州人は木国会という県人会を作り、国会議員や県会議員を送り、銚子の繁栄を支えてきた。彼等によって寄進された公正会館、公正図書館はいま市の施設となっている。現在500人の会員があり、地域経済の主要ポストを占めている。
◆銚子湊の謎解き。東廻海運史は逆転する
銚子湊は何処にという今回の解明の旅。銚子湊が見当たらない。
今回銚子史をたどってみたが、近世初頭、銚子湊の隆盛を窺わせる要素は見つけ出せなかった。銚子漁港が銚子湊?という疑問をもって調べて見ると銚子漁港は明治末から昭和30年代に整備された港であることが分かった。江戸時代銚子河口での漁は岩礁のためしばしば座礁の憂き目にあって多くの遭難者があったと言われている。今も銚子漁港に面する川口神社の千人塚海難漁民慰霊碑には慶長19年(1614)以来の遭難漁民の供養がされている。「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良子渡合が恐しや」といわれた日本三大難所と漁師にうたわれていた。
江戸初期では常陸沖を航行して銚子まで行くことが技術的に難しく、廻船は主に那珂湊に廻着し、それから霞ヶ浦や北浦までの区間は駄送によって中継輸送され、利根川水系の内陸水運に連絡していたという学説がほぼ定説として現在に至っている。そして、慶長14年銚子築港工事が成功したという古記により、東廻海運と内川廻しの中継地として銚子湊が栄えたというこれまでの学説は今から20年ほど前の1990年に渡辺英夫秋田大学助教授による論文で全く否定されたのである。
築港工事の3年前、河口部南岸から南方外川浦の隣の名洗浦に向かって水路を開鑿するという工事が試みられたが岩盤に突き当たって失敗に終わっている。この事はなにを意味するか。鹿島灘が操船技術上危険が多いというのに、常陸川河口部で銚子湊整備工事が行われることはありえないことであったし、鹿島灘は江戸初期から宮城藩や仙台藩によって東廻海運が行われていたのである。そこから考えると銚子港工事とは常陸川河口の岩礁を取り除き澪筋の水深を確保する工事であったはずである。17世紀後半には銚子を通って外浪逆浦の潮来河岸に仙台藩、宮城藩などの蔵屋敷があり廻船の潮来廻着が頻繁に行われていたといわれ、現在でも各藩の蔵屋敷跡の碑が残っている。
渡辺英夫は東廻海運史の壮途、古田良一東北大学名誉教授とその弟子渡辺信夫同校名誉教授の教え子である。
江戸初期の仙台、宮城の各藩と徳川幕府が上杉氏米沢藩から取り上げた福島、白河、会津藩の領米を江戸に回漕することは幕藩体制にとっての緊急の課題であった。東廻海運が繰り返され航海術が高まるにしたがって、銚子湊は避難港としての意味を有してくる。しかし早い潮流にもまれながら狭い澪筋を伝って銚子港に入港するには一定の危険をともなったのであり、あえて立ち寄る必要が無いのであればここは素通りしたのではないか。河村瑞賢の東回航路開発物語は銚子を素通りし、波浮湊経由江戸行きの航路はこのことを物語っていると考えられる。
江戸時代の遊郭跡が銚子河口から5キロほど遡った松岸河岸にある。現在この辺りが銚子湊であったと考えられている。(新実 由無)
小春日和となった12日、晩秋恒例の江戸連バスツアーが行われた。今年の行先は千葉県銚子方面。午前8時15分にJR東京駅丸の内北口に集合、ここまでは予定通りだった。ところがバスの乗り場となった新丸ビル付近に行っても肝心のバスが見当たらない。
「どうした?」「待ち合わせ場所は本当にここなの?」と不安の声が上がる。同時に「40人以上も乗るバスなので大型に決まっている」と丸ビル、新丸ビル周辺に停車しているバスまで出向き、お目当てのバスなのか、確認に行く人まで出る始末。
この事態にこの日の幹事の新実さんは、責任感が強いだけに大慌て。携帯電話で状況を探ると、東武バスが大宮営業所を定刻通り出発したものの、途中、埼玉で発生した事故渋滞に巻き込まれていたことが判明。このため東京駅出発は当初予定の午前8時30分から30分遅れの9時になってしまった。
この日のツアー参加者は連衆が32人とその友人が10人の総勢42人。運転手さんは国分光春さん、ガイドさんは武藤弥生さん。しかも国分運転手さんは、昨年の「江戸連足利へのバスツアーの際の運転手さん」だということが新実さんから紹介され、車中から歓声、拍手が起こった。
一行は箱崎ICから首都高に乗り、東関道を利用して千葉県大栄町ICで下車、あとは一般道を使って一路最初の訪問先・大原幽学へ。この間、車中では、新実さんが、例によって完ぺきなレジメを作成して配布、訪問先の基礎知識を学ぶ事前レクを開講。参加者の中からは「説明を聞いてもう行った気分になった」の声も。兎にも角にもそうこうしているうちに午前10時30分には大原幽学に到着。東京駅を出発してからの所要時間は1時間半。意外に近かった。
大原幽学に関しての詳しい説明は新実さんの講報告に譲るとして我々の大原幽学滞在時間は1時間45分。一行はここで記念写真をパチリ。そのあとは待望の昼食へ。お店は銚子電鉄「犬吠駅」近くの魚料理の「島武」。地元っ子・なべちゃん(渡辺和夫さん)一押しの店だけに、大原幽学から島武までの45分間のバスの中は「お昼の魚は何?」「寿司もあるの?」と食事の話題で持ち切り。
食事処「島武」は写真でお分りの通り2階建て。1階が回転寿司、2階が魚料理。予約している我々は2階の大食堂に直行。そこには既に大皿に30センチ大の金目(銚子の釣り金目と呼ばれ通称『銚金』)がテーブルに用意されており、一同「こんな大きな金目みたことない」と大歓声、大感激。着席後は四方八方から「ビール」「ビール」「熱燗3本」と威勢のいい声が飛び交った。それもそのはずで、この間、江戸連のバスツアーでは初快挙か、全くアルコール類を口に含んでこなかっただけに、皆のどはカラカラ状態、つまり飢餓状態だったのである。
この日の昼食の主役・金目の煮つけは実にうまかった。口に入れるだけで蕩けそうな甘露な白身も美味かったが、煮汁も抜群。ご飯にかけるとその旨みが倍加するとあって、「ご飯」「ご飯」とお代わりをせがむ声も出たほど。とにかく1時間超の食事には参加者全員が大満足。なべちゃん、ありがとう。
「午後の部」は2時から始動した。漁村・外川の町は道が狭く、大型バスがスムーズには入れないだけに漁港までの2㎞ほどを食後の腹ごなしも兼ねてテクテクと歩いた。途中、外川ミニ郷土資料館で名物館長の島田安枝さんとその息子・島田政典さんから外川の歴史などについて話を聞いた。その内容はこれも新実さんに任すとして、資料館を運営する島田さん親子は外川町一の活魚問屋「島長」の経営者。宮中祝賀の時、明石の鯛とともに銚子の「島長」の鯛が皇室の方々の口に入るというから漁師・政典さんの腕は折り紙つきの超一流。若社長の政典さんが、帰り際に、「魚があるよ」と、島長名産品のアジ、サンマの開き一袋(3匹入り)を格安300円で販売してくれた。これには連衆たちも大喜び、「お土産に最適だ」と飛ぶように売れていた。
一行はこのあと犬吠崎灯台や飯沼観音に立ち寄り、飯岡助五郎の墓に参った。この間のハプニングは飯沼観音近くのお寺に掲示されていた寄付者名簿。「あ、先程の島長・島田さんの名前がある。100万円、いやいや違う、1000万円を寄付しているぞ」と驚嘆。「あれだけ熱心に説明できるのもあの親子は銚子、外川を愛しているからだ。じゃ、ないと1000万円はとても寄付できない」と全員納得。
夕刻5時には所期の目的を達成し一路東京へ。途中、新実さんがコンビニでビールタイムを設けたものの、大半は心地よい疲れが先行したのか、バスを降りて買い物する人は少数。その後スヤスヤと眠るうちにバスは午後7時30分には東京駅北口丸ビル前に到着。散会する参加者は異口同音に「今日は楽しかった。ありがとう。ご苦労様でした。来年もよろしく」と新実さんを労い、銘々帰路についた。(平)
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